短期大学部・総合文化学科 │ 聖徳大学

(34) 根岸鎮衛『耳嚢(みみぶくろ)』(3)ー1

12.03.22

『耳嚢』には、現在も地方に残る口碑と共通する話も拾ってくれている。その一つ「神隠し」にまつわる奇談をまず紹介しよう。

寛政8年-1796-の盆14日のこと、下谷(したや)広徳寺前に住む大工の息子が、名人大工の拵(こしら)えた寺の門を見物に葛西まで出かけたまま、行方不明となった。驚いた両親が近隣の者とともに鐘や太鼓で尋ねたものの、見つからない。ところが、隣町の者が江の島へ参詣した折、弁天の社に朦朧としている息子を発見した。不思議なことは、この息子の叔父も20歳前に失踪したきり、ついに戻らないという。(巻之五「神隠しといふ類ひある事」)

文中、行方知れずとなった者を探し求めるのに、鐘や太鼓を打ち鳴らしたとある。昔は日暮れ時に姿が見えなくなる子供が多かった。さすがに現代人には馴染みが薄くなったが、迷子になった子供の捜索に鳴り物を用いたのである。柳田國男『山の人生』(初出大正14年1月~8月、アサヒグラフ)によれば、その鳴り物は、捜索対象に向けたものではなく、攫(さら)って行った天狗などから奪還するために発したものである。だから、関西では鐘や太鼓を打つとともに、「かやせ(=返せ)、もどせ」と叫んでいた。

柳田の同書には、ふいに姿を消した10歳ほどの少年を捜しあぐねているうちに、どしんと何物か落ちたような音がしたため、天井裏へ上がると、そこに倒れていたという明治40年ごろの例も挙げられているから、この種の神隠しは、つい近頃まで日常的な出来事であったと思われる。

上記の息子は、江戸から離れた江の島で発見された例であるが、次の話では、二十年を経てから帰って来た。

寛延-1748~51-から宝暦-1751~64-にかけての頃、近江八幡に松前屋市兵衛という富商があった。妻を迎えてしばらくして、行方知れずとなってしまう。金に糸目をつけずに捜索したが、とうとう見つからない。仕方なく、失踪当日を命日とし、別の婿を入れて跡を継がせた。
失踪の当夜、用便に立った市兵衛は、灯火を持った下女を待たせたまま、姿が見えなくなっている。その後、20年過ぎたある日、厠(かわや)から人を呼ぶ声がするため、行ってみると、市兵衛が失踪した当時の衣服のまま坐っていたのである。空腹を訴える市兵衛に食事を与えると、着ていた衣服が見る間に塵埃となって散り失せたという。(巻之五「弐十年を経て帰りし者のこと」)

よくできた話である。自家に出入りしていた近江八幡出身の眼科医から実際に見たと聞いた根岸は、「妻も後夫もおかしき突合(つきあい)ならん」と茶化して一笑した。実は、夫が失踪し、妻が再婚する、そこへ前夫が帰還するという筋立てには、先行例が存在する。例えば、井原西鶴作と伝える『万(よろず)の文反故(ふみほうご)』(元禄9年-1696-刊)には、京都から奥州路へ商売に出かけた夫が洪水によって死んだと聞き、百か日後に夫の弟を婿に迎えたところ、その数日後に前夫が生還するという話がある。また、同じ西鶴の『懐硯(ふところすずり)』(貞享4年-1687-成立)にも、夫失踪1年後に妻が別の男を婿としたが、婚礼の翌日に前夫が帰還するという同型の類話を載せている。

ついでにこの二つの話の結末を言うと、前者では妻を同じくした兄弟は、ともに高野・熊野へ参詣に赴く山中で討ち死にし、妻も行方をくらましてしまう。後者はもっと悲惨で、前夫は、新夫と以前から犬猿の仲だったため、妻とともに新夫を刺殺し、自刃して果ててしまうのである。
ひょっとすると、この医師は、以上のような筋書きをどこかで仕入れており、それに神隠しを組み合わせて創作したのかもしれない。

(G)
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