(33) 根岸鎮衛『耳嚢(みみぶくろ)』(2)
12.03.13
思わず耳を欹(そばだ)てるような興味深い噂話ばかりを、公務の隙を縫うようにして10巻も手録した根岸鎮衛とはどんな人物であったのか。
『耳嚢』には、志賀理斎による「耳嚢副言(みみぶくろそえごと)」「追加」、さらに吉見儀助「耳のあか」が附されている。志賀理斎は記録読み(史料等の講義・講釈をする者)として月に5・6回も根岸家を訪れ、親交が深かった。また、吉見は勘定組頭として奉行根岸に接した者である。いずれも生前の根岸をよく知っており、その人となりがよく知られる逸話を語ったものだ。根岸自身は「他人に見すべき事は堅く禁じぬれば」と序に記すとおり、門外不出のまま没したが、人物評まで添えられているところを見ると、誰かが出版の計画を立てていたのかもしれない。
今、志賀と吉見の逸話に基づき、根岸の人物像を紹介しよう。
根岸鎮衛は、もと安生(あんじょう)姓で、元文2年-1737-生まれ。22歳の時に根岸家の養子となって遺跡を継いだ。御家人とはいえ、わずか150俵の微禄に過ぎない。御勘定を振り出しに、5年後には幕府評定所留役、明和5年-1768-御勘定組頭、安永5年-1776-同吟味役、天明4年-1784-佐渡奉行、同7年御勘定奉行(ここで5百石に加増)、同年肥前守叙任、寛政10年-1798-町奉行となり、文化12年-1815-まで在任した。この年6月に俸禄1000石に至ったが、半年後に没している。
僅々150俵から1000石まで異数の出世をしたものだから、親類・縁者やゆかりの者どもが引き立ててくれるよう、しきりに頼みに来た。根岸は「心得たり」と返事をするだけで、一向に推挙しない。「自分は天恵によって意想外の身の上となった。どうしてそれが親類・縁者まで及ぶものか。彼らも奉公に精勤すれば、おのずとチャンスは巡ってくるはずだ。俺の知ったことではない。」と言って、情実人事は決して行わなかった。
人事の下手な某国の首相と違って、必ず適材を得たのも、偏頗の私情を排したからだと吉見は言う。根岸は、常に周囲に響くような大声で話し、ひそひそ話を好まない。「小声で話すのは慎みがあるように見えるが、そうではない。下劣な話題だからか、人を害して自分を利する悪事を企んでいるからか、多くは他聞を憚るからそうするのだ。」という無私の姿勢を貫いていたからである。ただ、晩年には老齢から耳が遠くなり、さらに大声になった由。
その性、豪放にして磊落、蓬頭垢衣とまで言わないが、辺幅を飾らない、およそ奉行らしくない奉行だったようだ。
ある冬の朝、出勤の折に頭巾の用意がない。そこで妻女のお高祖(こそ)頭巾を頭に巻き、そのまま出仕した。また役人同士連れだって登城した時、下乗(げじょう)橋の辺りで大きな鼻クソを掘り出し、橋の欄干に乗る擬宝珠(ぎぼし)にすりつけて通った。自家が火事になった時も、便所に入っていて、家が焼けるのもかまわず用を足してから悠然と出て来たという。火事はいくらなんでも些事だとはいえないが、小事に拘泥しないこうした行動を、志賀は「傍若無人」と目を細めながら評している。
無論、町奉行としても有能であった。
ある年、津波によって流された大船が永代橋を破損した。橋守から船主へ損害賠償の訴訟が起こされた時、天災では仕方がなかろうと根岸が諭したものの、橋守は承知しない。しつこく訴え出るため、「それでは、船主から橋の修復費用を出させよう。だが、船が破損したのは橋があったからで、船の修復には橋主から出さねばなるまい。」と裁断した。ところが、船の修繕費用のほうがはるかに上回るので、橋守から示談を申し入れたという。
奉行は、刑事・民事のあらゆる事件を裁かなければならない。町役の長を勤める者に挟み箱を持たせてもらいたいという訴えが名主らから出されたことがある。挟み箱は、衣服などを入れて従者に運ばせる蓋つきの箱であるが、官職を有する武士、大名、御殿医など、限られた階級に許されたステータスシンボルである。複雑な格式に従う必要がある上、名主・大屋と誰が見ても分かるようなヘアスタイルに変えねばならない。それを承知で持ちたいというなら許可しよう。ここは熟慮したほうがよい、と才弁を揮って申し渡したところ、名主らは驚いて取り下げたという。ここで普通の奉行なら、「町人の分際で不届きだ」と大喝するところだ。根岸は、こんな些細なことで咎めだてはしない。襟度の広さが違う。別件のところで、板倉伊賀守の面影が偲ばれると志賀は称えている。
他人の著書に附した人物紹介に不面目なことは書かない。だが、吉見は以下のような逸話を落しはしなかった。
日本橋附近の川を浚い上げる普請(=土木工事)が行なわれた時、人夫として町火消人足が当てられた。そこで、人足の頭である老人夫を白洲へ呼び出すと、日頃の精勤を誉め上げてから、仕事を一任する旨申し伝える。こう言っておけば、懸命に励み、速やかに落成するだろうと踏んだわけである。老人夫は感涙を流して退出した。ところが、大雨が続き、大水が出てしまう。かの老人夫は責任感から持ち場を離れず、誤って溺死した。驚いた根岸は、遺族に鄭重な弔慰金を与え、「奉行たる者、一言を発するにも慎まねばならん。自分が過重な責任感を負わせたせいで、命を失わせてしまった。」とひどく後悔したという。
こんな一面を残してくれたから、墓碑に刻まれた事蹟とは違う、真実の人物像が髣髴するのである。