(22)「三方一両損」―2
11.11.27
さて、この話の元になった『板倉政要』巻第七「聖人公事の捌(さば)き」では、貧民が金子三分を拾い、所司代へ届け出る。札を立てて落とし主を求めると、即日町人が申し出て来た。しかし、その町人は、その程度の金なら不便を感じないから、拾った者にやってほしいと訴える。拾った方は無論固辞して受け取らない。板倉殿は、双方の心底を察し、自ら三分を添えると、双方へ三分ずつ与えて落着した、となっている。
だが、二三度読み返して、この話はどうも変だと感じた。拾った者が金子を届け出るのはよいとして、落とし主がわざわざ名乗り出たにも関わらず、拾った者に与えてくれというところが、いかにもわざとらしい。即日奉行所へ出向いたからには、自分にとって必要な金であったはずだ。不要不急の金なら、わざわざ名乗り出ることもない。そのままにしておけば、拾った者の手に入るであろう。
ただ、白洲にうずくまる貧民を憐れに思ったから、咄嗟に判断したとも考えられよう。だが、その場合にも、謝金さえ払ってやれば、相手の顔を立てることにもなり、円満に事は済む。意地を張って一切要らないというのは、別に意図があったとしか思えない。
これと同じ疑問から発したかどうか知らないが、『本朝桜陰比事』(巻三-四「落し手有り、拾ひ手有り」)では、落し主と拾い主とが結託して仕組んだ狂言だったと予想外の方向へ展開している。当初三方一両損の裁定を下したのは奉行(固有名を出さず、「御前」としている)でなく、家老であった。報告を受けて疑念を抱いた奉行が再び両人を呼び戻し、厳しく問い詰めると、すべて拾い主のたくらんだことだと白状したというのである。
もし、そうだとすると、奉行所から一両を詐取するために仕組んだことになるのだが、こんな方法が通用したものだろうか。いや、実は、江戸時代には、孝子・節婦はもとより、善行を施した者や正直者に対して、幕府から褒賞金が与えられたのである。だから、それを目当てにした詐術であった可能性はなくもないし、もしばれても、所払い(追放)程度の軽罪で済んだ。
この点、落語では、「宵越しの金は持たない」というくらい金離れのよさを自負する江戸っ子の気質を強調するように話を構成し直した。それに伴って、江戸っ子の本領がよく見られる話として、この「三方一両損」は引かれることが多い。しかしながら、本来は板倉政談から来ている京都の話だった。「江戸っ子」なる言葉が文献上に初見されるのは、明和8年(1771)だそうである。江戸開府以来170年余、ようやく江戸っ子が定着し始めた。それまでは、どこの国の出身であるか歴然とした者ばかりだったのだ。文化東漸という。無から有が生れるはずはない。江戸っ子の人心や気性などもあるいは東漸したのかもしれない。