(8) 窮極の屁理屈
11.08.03
年末の煤(すす)払いに用いる笹竹を旦那寺からタダでせしめ、使った後も屋根の押さえや箒の柄にする。年に一度の据え風呂を立てるにも、五月の粽(ちまき)の殻、盆の蓮の枯れ葉を捨てずに置いて焚きつけにする。塵一つ無駄にしない。
こんなケチを息子に持った母親だから、一枚も二枚も上手(うわて)を行く。
大晦日の風呂焚きに下駄の片方を火にくべている。十八で伊勢屋へ嫁入りした時に履いて来た物だから、もう53年になる。死ぬまで一足で済ませようとしたのに、野良犬に片方をくわえられて失ってしまった。それを是非なく煙にすることをひどく悔み、何度も愚痴ったあげく、ようやく竈に放り込む。
今一つ未練らしく、涙ながらに嘆く。「明日で一周年になるが、惜しいことをした。」もらい湯に入っていた近所の医者が問う。「元日にどなたか亡くなったのかね。」
老母答えて曰く、「人が死んだくらいで、こんなに悲しみはしません。去年妹がくれたお年玉を恵方棚へ上げて置いたのに、その晩盗まれました。」と。
老母は、その金惜しさに、山伏を頼んで祈禱してもらったこと、しかし、手品師のようなからくりに騙され、初穂料百二十文(もん)を失ったことを医者に告白し、損の上に損を重ねたと、さらに大声を上げて泣く。家の者には、盗みの疑いをかけられてはたまらないと、身の潔白を神仏に祈請する者さえ出る始末だ。
そうして、屋根裏の煤を払っていると、棟木(むなぎ)の間から包みが一つ現れた。老母のお年玉に違いない。周囲は鼠のせいにするが、老母は頭の黒い鼠の仕業だと畳を叩いて喚く。風呂から上がった医者が、鼠が荷物を引いて住処を移したという故実を紹介してなだめようとしても、自分の目で見ないことは信用できないと言って納得しない。
致し方なく、医者が鼠使いを連れて来た。恋文を届けろと鼠に命じると、相手の袖口へポトリ。銭を投げて餅を買ってこいと言えば、銭を置いて餅をくわえて戻る。
さすがに老母は、包み金を引いたのが鼠だったとしぶしぶ認めたものの、こんな盗み心のある鼠を飼っていた息子が悪い、一年遊ばせておいた分の利息をもらおうと言って、一割半(15%)をその晩受け取り、安心して正月を迎えたというのである。
この話の出典『世間胸算用(せけんむねさんよう)』(1692年刊)は、前回に続いて井原西鶴の作品と伝えられている。老母に翻弄される周囲の人のよさと、落ちに用いた屁理屈の徹底ぶりに食指が動いたのだろう、坂口安吾は、少年向けの翻案小説「屋根裏の犯人―『鼠の文づかい』より―」(1953年、『キング』第29巻第2号)の題材とした。
ところで、鼠使いを雇ったのは医者だが、その費用はどうしたのだろう。現代の常識から見れば、事実の証明を行うための実費は老母に課せられてもおかしくない。
坂口は、その点を次のように合理化した。山伏に騙されたという事実を医者が解明してやったという設定にし、その藪蛇(やぶへび)に逆上した老母を償うため、「実物を見せられないこともないが、お金がかかるな。伊勢屋さんがお金のかかることをする筈はなし。乗りかかった舟だ。まア、仕方がない。では実物を連れてきて御隠居を納得させてあげるから、暫時まちなさい」と言って、自ら負担した。何とも気のいい医者である。