短期大学部 総合文化学科

(201)江戸の珍談・奇談(26)-6 20200921

20.09.21

 『武備和訓』の著者片島武矩は「右の戒ものがたりについていふ事あり」と但し書きをした後、例の清水の逸話を載せている。

 かの清水氏は、元来寺沢家の浪人だったが、後に黒田家の陪臣となった。ある時、甲冑造りの名工、妙珍という者の家へ行き、サンプルの兜を見せてくれと乞うと、重装という最上の品を出してきた。それを見るや、清水は「この兜程度の物では気に入らん。これは俺の拳を以て十分砕くことが出来そうだ」と豪語する。名工は大いに怒って、「お侍の言葉は鉄石のように堅いはずだ。もしその兜を拳で砕きなさったら、お望みの通り、代金をもらわずに妙珍の秘法を用い、兜を造って差し上げましょう。さあ早く兜を壊しなされ」と迫る。
 もともと清水は大兵でない。顔つきも姿も普通の人と変わらないので、絶世の剛力とは思いもかけないのも当然である。清水はにっこりと微笑み、兜を左の掌に載せ、右の人差し指を以てこれを押すと、鉄砲の弾の跡より大きく、指の形に窪む。それから、兜を碁盤に載せ、拳を振り上げておもむろに打ったところ、兜はひしゃげて、蓮の葉が風に破られたようになってしまった。
 その後、細川家へ赴き、膂力の強さによって食禄500石で仕官した。剣術や柔術その他武芸で名が通った。誠に絶代の壮士といってよい。(『日本教育文庫 訓誡篇中』434~435ページ)

 続いて片島は次のように書き添えた。

 清水は力を自慢するところがある。兜を砕いたことは、血気の甚だしい現れだ。妙珍に罵られて、もし直ちに兜を砕けず男の道が立たない事態に立ち至ったとしたら、始めの過言のせいだということになる。こんな遊侠(=おとこだて)は武道ではない。たとえその武士が万人に勝る力があるとしても、常に隠して人に知られないようにし、忠義でなければこれを奮うまいと覚悟しなければならない。(同上)

 このように、清水の怪力話も「武士は過言を慎むべし」という訓戒に導いている。これは腕力だけの問題ではない。武士の平生の嗜みとして万事に渡る規範でもあった。
 文化4年-1807-から6年-1809-にかけて、会津藩が幕府の命により樺太へ出兵・駐留したことがある。鎖国政策の中で、ロシア通商使節のニコライ・レザノフが実力での通商を図ろうとロシア皇帝の許可なく海軍を率い、樺太や北海道の漁村で略奪を行ったため、襲撃に備えるよう東北諸藩に蝦夷地への出兵と防備を幕府が命じたのであった。
 その出兵に際してある貧しい武士が是非参加したいと申し出る。朋輩も親類も、この人は平生の奉公さえおぼつかない生活ぶりだから、この度の軍役など思いもよらない。ところが、直ちに入隊を申請したのは不審だと、一人の朋友がこの者を招いて言う。

 「貴殿は平生のご奉公もままならない。勝手向き(=家政)も不如意かと察している。この度の軍役は、失礼ながら不安だと存ずる。昵懇の仲だから失礼を顧みずこう申すのだ。今回は病気と言えば済むはずではないか」と、親切に勧めたところ、この者は「お気遣いは忝く存ずる。しかし、少々心がけた支度もありますから、近日軍目付(いくさめつけ)をお呼びし、具足の検分を受けたいと存じます」と言うので、いよいよ不審に思い、そのまま黙ってしまった。
 やがて軍目付を招請すると、甲冑二領、軍用金100両、その他旗指物などをきらびやかに飾って置いていた有様に仰天したという。(『道聴塗説』第二十編―『鼠璞十種』中巻、昭和53年、中央公論社―315~316ページ)

 文化年間といえば、江戸町人文化の全盛期に当たり、享楽を極めた時代であった。官僚化していた武士にとって戦役などは予想外であったに違いない。だからこそ、『道聴塗説』の編者大郷信斎(おおごうしんさい)は「平生無用の長物に観美を尽し、財宝を費やし、本分の武備を疎外にする輩は、これを視て亀鑑となすべし」と警鐘を鳴らしたのである。(G)

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