短期大学部 総合文化学科

(166) 柳の環と黄楊の小櫛

17.03.15

最近、鳥取市の青谷横木遺跡で、平安時代に植えられたとみられる柳の根が見つかったそうです(『讀賣新聞』2017年2月22日朝刊)。この遺跡は、古代の幹線道路「山陰道」が通っており、どうやら街路樹に柳の木が植えられていたようです。近江俊秀氏(文化庁文化財調査官)は、「木陰を作るという実用性とともに、『都につながる道』という格式高い空間を意識したのではないか」とおっしゃっています。

時代は遡りますが、大伴家持の「柳黛を攀ぢて京師を思へる歌(題詞)」、「春の日に張れる柳を取り持ちて見れば都の大路思ほゆ」(『万葉集』巻19・4142)が思い起こされます。大伴家持が国守として越中国に赴いた時に、奈良の都を懐かしく思って詠んだ望郷歌です。奈良の都の大路にも柳の木が植えられていました。

古代中国では、旅立つ人に柳の枝を折り取って輪に結んで贈る風習がありました。輪は「環」とも言い、帰還の「還」と同じ発音をすることから、しなやかで生命力のある柳を贈ることで、無事戻ってこられるようにと旅の安全を祈ったのです。

晋の時代では、この風習が望郷をモチーフとしていることから、詩や歌に詠われるようになり、楽府曲(横吹曲)として愛好されました。『宋書』「五行志」によると「晋太康末、京洛為折楊柳之歌。其曲有兵革苦辛之辞(晋の太康の末、京洛折楊柳の歌をなす。その曲兵革苦辛の辞あり)」とあり、折楊柳の歌には戦争の苦しみが込められていると言います。

   楊巨源「折楊柳」
水辺の楊柳麹塵の糸 馬を立め君を煩わして一枝を折る 惟だ春風の最も相惜しむ有り 殷勤に更に手中に向かつて吹く

  文帝蕭綱「折楊柳」(『玉台新詠』巻七)
楊柳乱れて糸を成す 攀折す上春の時 葉密にして鳥飛ぶことを礙げられ 風軽くして花落つること遅し 城高くして短簫発す 林空しくして画角悲しむ 曲中別意無し 并せて久相思を成す

  李白「塞下曲」
五月天山の雪 花なくしてただ寒あり 笛中に折柳を聞くも 春色いまだかつて見ず 暁に戦ひて金鼓に従ひ 宵に眠りて玉鞍を抱く 願くは腰下の剣を将て 直に楼蘭を斬らむ

李白の「塞下曲」は、戦場に赴いた兵士の立場に立って詠んだ望郷の歌ですが、見送る側からすれば離別の歌でもありました。独り残された女性はひたすら夫の帰りを待ちわび、毎春柳が芽吹くと折楊柳の風習を思い起こしたのです。

この折楊柳の歌は、『懐風藻』釈弁正「朝主人に与う」の「琴歌馬上の怨、楊柳曲中の春。唯有り関山の月、偏に迎う北塞の人」や、『和漢朗詠集』の楽府題(嵯峨天皇御製・巨勢識人奉和)に見られることから、日本でも広く知られていました。

ところで、平安時代、別れの場面で黄楊の櫛を贈ることがありました。斎宮(さいくう。さいぐう、いつきのみやとも。天皇の代わりに伊勢神宮に仕える皇女や女王)の伊勢への旅立ちに際して、天皇自らが斎宮の額髪に黄楊の小櫛を挿す儀式「別れのお櫛」です。天皇はこの時だけは白の衣装を着け、平床の座に座って斎宮に対面し、「都のかたに赴きたまふな」と告げます。

『源氏物語』賢木巻では、朱雀帝が新斎宮(六条御息所の娘)に黄楊の小櫛を挿す場面があります。

斎宮は十四にぞなりたまひける。いとうつくしうおはするさまを、うるはしうしたてたてまつりたまへるぞ、いとゆゆしきまで見えたまふを、帝御心動きて、別れの櫛奉りたまふほど、いとあはれにてしほたれさせたまひぬ。〔新全集②93頁〕

斎宮は、天皇の代替わりや近親者に不幸がない限り、京へ戻ることはできません。もし、卜定(ぼくじょう。吉凶をうらない定めること)された斎宮が自分の娘でしたら、天皇は自分の娘に「都のかたに赴きたまふな」と言うことになり、悲しい別れの言葉になりますね。

先日の謝恩会で、卒業生からエア花束をいただきました。気持ちがこもっていましたので、どんな高価な花束より嬉しく思いました。社会に出てゆく皆様に、私からもエア黄楊の櫛をお贈りいたします。「聖徳大学のかたに赴きたまふな」――いえ、昨今はブラック企業も多うございますから、エア柳の環をお贈りしましょう。またいつでも大学に戻ってこられますように。

ご卒業おめでとうございます。どうか自分が納得のゆく人生を歩まれますことを心よりお祈り申し上げます。

*「折楊柳」については、山口博『叢刊・日本の文学一 愛の歌 日本と中国』(新典社、一九八九年)、同『万葉集の誕生と大陸文化』(角川書店、1996年)、同「第二篇第一章第二節 楽府の伝来」(『王朝歌壇の研究 文武聖武光仁朝篇』桜楓社、1993年)参照。

(し)
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