短期大学部 総合文化学科

(54)『近世畸人伝』(7)―気概―

12.10.14

洗練された俳文集『鶉衣(うずらごろも)』で名高い横井也有(よこいやゆう)は、蕉風になずんでいたが、特定の師につかなかった。また、生涯俳諧の門人を持っていない。俳諧師は、当時「宝の山の俳諧」〈『続近世畸人伝』巻之四、444ページ〉と言われたほど、実入りのよかった職種である。

尾張の藩士として世禄を得ていたから、弟子は不用とはいえ、ややもすれば上手と言われようと思い、菲才にもかかわらず、自分に諂う者をそそのかしてその道に進ませ、弟子だ門下生だと得意がる者がある中で、也有は一種の志操を保ったといってよい。〈同、巻之三、357ページ〉

続畸人伝の筆者三熊花顚は、「予はその数奇の俳諧をばおきて、その人がらの君子なるをたうとむ」と、也有の生きる姿勢を称賛した。巻之三の冒頭には、そのような気概を持った人物が並ぶ。

粟田口善輔(あわたぐちぜんぽ)という隠者もその一人である。『徒然草』に引かれる許由(きょゆう)や孫晨(そんしん)を髣髴させる恬淡ぶりで、持ち物といえば、手取釜(てとりがま)一つしかない。これで施しを受けた米を炊(かし)ぎ、茶を喫していたのであった。

善輔の風狂ぶりを伝え聞いた豊太閤(=豊臣秀吉)が、その手取釜をもらってこいと利休に命じた。利休が直ちに赴いて所望の旨を伝えると、善輔はたちまち色を変じて、「この釜を献ずれば代わりがない。詰らない釜のせいであれこれ言われるのは心外だ。」と言って、釜を石で打ち砕いてしまった。呆れた利休は、豊太閤は短慮だからどうなるだろうと心配しながら報告したところ、案外機嫌がよく、「善輔は本物の通人だ。あれの持ち物を欲しがったこちらが間違っていた。」と言って、当時伊勢阿野の津に住む鋳物師の名人越後に命じて、利休の見たとおりに釜を二つ造らせ、一つを償いとして善輔に与え、一つを御物とした。善輔の没後、その釜は粟田口の良恩寺に収まったという。〈同、351ページ〉

阿波の藩士園木覚郎(そのきかくろう)は、致仕(ちじ)の後、武芸を専らにしながら隠居生活を楽しんでいた。客を招いては、夜通し風月を愛で、詩歌を翫ぶのに余念がない。ある時、徳島の大禄の臣が、覚郎老人の隠居屋にある千古の松を欲しがり、権柄づくで求めて来た。覚郎は、暴風から自分の草庵を守るのに必要だから、差し上げるわけにいかないと平然とした顔で答えたが、使者が門を出た途端、下僕を呼んで松を根元から切り倒してしまった。〈同、354ページ〉

いずれも反応がストレートである。真っ向から受けて立って、自身の損害どころか、向後の憂いも何も考慮しない。これでは、場合によっては自分の命まで失うことにもなろう。こんな武骨な気概が美質として称揚された時代なのである。

その点から言えば、数百年時代を遡って、平安・鎌倉時代には、このような気概を讃える風潮はなかった。

成方(なりかた)という笛吹きあった。御堂入道道長から大丸という笛を賜わり、愛玩していた。伏見修理大夫(しゅりのだいぶ)俊綱(としつな)朝臣がその名品を欲しがって、千石で買おうと持ちかける。しかし、成方が売らないので、たびたび使者を差し向けた上、売るつもりだと言っていたと嘘を捏造してしまう。成方を召し出し、言い値でぜひ買おうと持ちかけるが、もちろん成方には覚えがない。使者に訊ねると、成方は確かに承知したとの一点張りだ。憤った俊綱は、自分を欺いた咎により、成方を拷問の器具にかけようとする。そこで、成方は、笛を持参する由を申し出た。帰参すると、腰から笛を抜き出し、「こんな物のせいで酷い目にあった。」と言って軒下に下り、石を取って笛を粉々に打ち砕いてしまう。俊綱は、笛を奪おうという欲深さに色々事を構えたのだが、砕かれてしまった上は、どうしようもない。罪に問うわけにもいかず、成方を放免してしまった。〈『十訓抄(じっきんしょう)』第七〉

ここまでなら、成方の直截な気概を示すもので、江戸時代の武士にも通じよう。だが、この後に「後に聞けば」と後日談が続く。実は、成方は、笛を持って来ますと自邸へ戻って、偽物を持ち帰り、それを打ち砕いたのである。だから、本物は無事で、いささかも痛痒を感じなかったというのだ。筆者は「大夫のをこにてやみにけり。初めはゆゆしくはやりたちたりけれども、つひに出だし抜かれにけり。」と結んでいる。

武骨で率直な反応はヤボなのだ。貴顕の横暴を柳に風と受け流す、そんな利発で柔軟な機転をよしとするところに平安の美学があった。

(G)
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